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20171102






いつの頃からか、「死ぬ」ことが恐怖ではなくなった。

子供の頃を思い返してみれば、毎日のように死の恐怖を感じていた。
いま思えばそれはきっと本能的なものだったのかもしれない。
理性や知性が未熟な分、本能に支配されていたのかも。「生きたい」という全ての生命が持つと言われる共通の生存本能。

いったい何がそれを克服させたのはかわからないが、いつの間にか「死ぬ」ということを恐怖なく受け入れられるようになっている。

年齢的なものもあるのかもしれない。

色々抱え込んでいた時期なんかは、むしろ死にたいと思っていたこともあったが、色々満たされている今は、ここで死んだら勝ち逃げだな。などと思う。

私の周りの皆ではないが、同じような年代の人の多くが、同じように「死ぬのは怖くない」という。
その人たちの共通点を考えてみたら、私を含め皆、わりと好きに自由にアウトローに生きている(笑)。
生き方の選択は自由だから、善悪は問うまい。
やりたいことをやって、やりたくないことをやらず(多少はやりますけど)、自由奔放に生きている。つまり、人生に満足しているのではないかな。少なくとも、私は満足している。
勝ち逃げ組とでも言うか。

自由に生きればすべての責任は自分にかかる。故に、常に諦めというか、覚悟のようなものが頭のどこかにある。

「立つ鳥跡を濁さず」というが、私は「立つ鳥跡を濁す」生き方をしたい。

「終活」よりも「ギリギリまでもがき、満喫する」人生を選びたい。

この世に生まれた時から、誰もが常に死と隣り合わせの人生である。
ところが、意外と普通に「明日がある」と思っている。
スケジュールや計画をたてるのは、未来があると仮定してのこと。
明日は死んでるかもしれないと仮定していては、今の日本では生きられない。
それが「死」を忘れさせているのかもしれない。

そうか

子供の頃に思い描いた未来は、明日や明後日のことではなく、現実味のない遠い未来のこと。
明日や明後日の予定は学校に行くことしかないから考えもしなかった。
かといって、生存するため、命のためになにかしていたかと言えばそうでもない。
自動的に生きていられて、存在出来るのが当たり前だった。

だから死ぬのが怖かったのか。
生きるために何もしてなかったから。

対象のために行動しないが故に不安が生じる

という真理はここでも健在だな。

たしかに今は、生きるために必要なこと、努力すべきことに尽力している。

または、それに疲れているのかもしれない。
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